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和食ランチ

和食ランチ
今日は朝イチで美容院に行って来ました♪
朝早かったので空いていて良かったです。
ランチは大好きな和食☆
美味しいです。
髪を綺麗にすると、とっても元気が出て来ます。
皆さんも良い週末を!

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少ない油で…

少ない油で…
皆さん、ご存じの知恵でしたらお許しください☆
私はフライパンを傾けてちょっとした揚げ物をしています。
少しの油で揚がるので便利です。ちなみに画像はにんにく揚げです♪

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可愛いお土産

可愛いお土産
ルノアール「ルグラン嬢の肖像」のキャンバス型クリップを頂きました!
可愛くて一目ぼれです。どこに飾ろうかな〜☆

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温かな贈り物

温かな贈り物
昨日、親友のTちゃんから温かな贈り物が届きました。イチゴティです。何よりこのお茶を見て、私を思い出してくれた心が嬉しかったです。胸がじーんと温かくなりました。
有り難う!

同時に昨日の夜、息子の小学校時代の友達のお母さんから、近況を気遣う電話も頂きました。

私は思いやりのある方たちに助けられて、幸せ者です。
色々なことに、目に見えないすべてのことに、本当に感謝している私です。

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かわいいヒヨコ

かわいいヒヨコ
またまた可愛いものを発見!
「のりたま」のヒヨコです。朝ご飯が楽しみになりそう☆

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大人になるって

自分が大人になった、と思う瞬間はどういう時でしょうね。
 
働いてお金を稼いだ時。
成人式を迎えた時。
社会人として就職した時。
私は、履歴書の下の保護者欄に親の名前を記入する必要がなくなった時、「あれ、もう、大人なんだ〜」と実感したのを記憶しています。
 
先週、職場の人数人と飲んだ時、結構奥深い話もしました。
ある人が言った言葉で、なるほど、そうだよね! と思ったのは、
  
「親の評価が気にならなくなり、自分の評価が自分で出来るようなった時が、大人になる分岐点だ」
  
という言葉でした。
 
そう。子供はいつまでも大人の評価(特に親、時に教師)の目を気にします。
やっぱり良く思われたい。でも、相手も人間だし、自分の全てを理解してくれる訳ではないのです。
  
今、職場でも、大人になりきれていない人は、同僚の目をとても気にします。
すごく好かれたくて行動にするのに、結果を求めてしまう。みんなに自分を理解して欲しい、分かって欲しいと要求もするのです。
  
あまり周囲に要求したり、期待しても、それが叶うことはないでしょう。
なぜなら、大人として独り立ちした人にとって、自分に対しての評価も特別に必要としない変わりに、相手への理解や評価をする義務はないからです。
理解しようとするのは、うまくコミュニケーションをとるための好意であって、それを必要以上に要求されても困ると思うのです。
  
もちろん、仕事に対しての正当な評価をもらえなければ、みんな勤め続けないと思います。
でも、自分に恥ずかしくないように仕事をしていれば、評価はついてくると思います。
求めなくても。
  
きっと、自分で自分の価値を認識できた時、周囲の人も自分も楽になるのだと思うのです。
それが、大人になったということなのかもしれません☆


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ザ・シークレット「引き寄せの法則」

今、話題になっている、引き寄せの法則「ザ・シークレット」のDVD版の冒頭20分を字幕付きで見れるサイトを発見しました。

ここに訪れる皆さんなら、既にご覧になっているかもしれませんが、お知らせしますね!

http://jimaku.in/w/_b1GKGWJbE8/ae1POlJjQMK

自分の思考が全てを引き寄せている。
いいことも悪いことも、自分が願ったことが、そのまま現実になるだけ。
でも、全ての思考をコントロールすることは出来ない。
その中で、いいことだけを実現する、思考の見分け方のポイントがある。

そんな内容のことを紹介してくれる内容です。

20分見たら、全部見たくなってしまいました。
本も出版されているようですね。
DVDの日本語版も、いずれ発売されると思いますので、もうちょっと待とうかな。

今、現実にラッキーな人生を歩んでいる人に共通する何かがあると思います。
だから、引き寄せの法則は、嘘とは思えない私です。

浅見帆帆子さんも「引き寄せの法則」の本をお勧めしているようですね。

この映像を見て、なんだか、ワクワクしてきました! 私☆
いえ、映像自体はお金もかかっていないし、オカルトっぽい、変な雰囲気ですがね。
ワクワクしたり、楽しい気持ちを信じていいんだ、って思えて、本当にワクワクしてきたのです。

嬉しいな〜。こんな気分。
みんなにも分けてあげたくて紹介しました!!
(もし、見てみて、あまり合わなかったら無理しないように。気持ちのいいことを選ぶことが、きっと自分にとっての答えなんですから)

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自分で見つけたい自分の答え

ちょっと閑話休題です。
  
目に飛び込んで来る情報。耳から入ってくる情報。
今、自分がもとめていた答え。もしくは、自分の考えを言葉にしてくれていたことなど。
飛び込んできた瞬間、なんだか嬉しくなり、一瞬、ワクワクしてきます。
  
高橋歩さん(写真やエッセイを出版したり、お店の経営など色々としている自由人)の、LOVE&FREEというフォトエッセイの本をパラパラと読んでいたら、下の言葉が飛び込んできました。
  
一生懸命、相談にのってくれてありがとう。
でも、ワタシが知りたかったのは、「あなたの答え」ではないみたい。
きっと、「ワタシが考える手伝い」をして欲しかっただけなの。

  
そう、自戒も含めてですが、人は自分の気持ちを話す時、アドバイスが欲しい訳ではないのでしょう。
ただ、聞いてもらいたかったり、心を整理したりしたいことが大半かもしれません。
  
相手の心を整理する役目をする。
相手の言いたいことを引出してあげる。
そして、私に出来ることは、見守ってあげることだけなのでしょうね。
でも、それが一番で、最高の応援なのでしょう!
 
そんな風になれたら、素敵だなと思います☆

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鎧を捨てて、無防備になること

子供が親からの愛を感じないことは、気のせいではありません。
 
気のせいであるなら、大人になってから精神安定剤を手放せずに、子供時代の傷を引きずっている人がどうしてこんなに多いのでしょう?
  
元々の素質でしょうか? よくばりな子供だからでしょうか?
  
愛を求める量は確かに個人差があるかもしれませんが、ある程度の質のいい愛が与えられれば、そこまで無限にお腹をすかせていることはないと思うのです。
   
私が思うのは、実は親自身が、自分である必要があることを、その親から受け継いでいないのだと思うのです。だから、無条件の愛というのが、どういうものなのか分からないのかなと思うのです。
親自身も苦しんでいる。その子も苦しんでいる。その子が生んだ子も苦しんでいる。
連鎖はどこかで断ち切らないと。
そして断ち切れるのは、自分自身しかないと断言します。
親のことも、子のことも根本的には助けられない。
少なくとも、自分を救うことが出来れば、子供の心を救うことも出来ると思うのです。
   
親から愛をもらったと自覚できる人は幸せなことだと思うのです。
親からの愛を自覚できない人に対して、はがゆい思いもあるでしょう。
くれぐれも、その人に親の愛を話したり、お説教はしないであげてください。そのまま受け入れるか、認められなければ流してあげて欲しいのです。親側からの事実や言い分はどうであれ、子供がそう受け取ったということが、子供側の事実だからです。
   
子供がいい巡り合わせや出会いがあって、傷が癒えれば、親を超えて、親を許すことが出来ると思うのです。
でも、親を許せない以前に、自分を愛せない人がとても多いのです。
自分を愛せない人は、自分を傷つけます。
  
悲しいことに、自分の体を傷つけたり、自分を安く扱ったり、自分を追いつめて悩みを呼び寄せます。
屈折していますが、人を攻撃して、人から傷つけるようなこを無意識に言わせることもあります。
傷ついて悲しい思いをするのですが、自分が招いているとは気付きません。
いつも人から傷つけられる、なぜか疎まれると思い込んでしまうのです。
  
傷つきたくないから、先に人を傷つけてしまうという人を何人か知っています。
攻撃は最大の防御です。
でも本当の強さは、大きな盾を心に持って、広い心で無防備でいられることだと思うのです。
多少の攻撃には傷つかず、無防備でいるからこそ、逆に攻撃も受けないのです。
心を開かなければ、相手も警戒心を緩めないでしょう。
それは難しいと思うのですが。
  
恋人が出来ても、嫌われる行動ばかりして、疎まれて捨てられてしまう。でも、それが自分が招いたこととは理解できない。悪循環は、まず自分が自分として認めていないから、そういう行動をしていることが分かっていないのです。
  
親を変えられないのであれば、自覚する他、救われる道はないと私は思います。でも、自覚することが1段階、次のステップは、自分を認めること。そこはとても難しく、大変だと思います。
   
屈折している人は、傷を追っているので、逆にプライドも高いのです。
プライドが自分を守っているようで、実はそのプライドが成長を止めている気がします。
そのプライドをまず捨てないと、自分をそのまま愛することは難しいかもしれません。
  
何度か例をあげた I さんに関してですが、親からの期待と重圧で必死で歩んだエリートです。
そのまま放っておいても、優秀なIさんはどの道かは分からないけれど、きっと幸せになったと確信出来るのです。でも、親が、親の希望の道を歩む子供でないと愛せないというメッセージを送ったばかりに、その栄光の道は苦難と変わってしまったのです。
  
そのIさんは今、同じ期待と重圧を、子供にも与えています。お子さんは心と体を壊して悲鳴をあげています。
そして、その子供を見て、Iさんも心を病み、追いつめられノイローゼになっています。
どうして子供への介入をやめられないかというと、プライドが邪魔をするからなのです。
  
彼女が自分が自分であるための最後の砦は、人がすごいねと言ってくれる道を歩んで、今があることです。
だから、自分の子供にそれ以下の道を歩ませることは、プライドが許さないのです。
自分自身を否定することになるからです。
 
矛盾ですが、愛していなくても、自分を肯定することは出来るようです。自分のプライドを守ることでしか、自分を肯定出来ない苦しさがまた生まれてきます。
  
自分を守るプライドが、逆に条件付きの愛に変化してしまう。条件付きの愛を受けて悲しかったのに、自分の傷を正当化するために、条件付きの愛を与えるしかないのです。
  
私は何も出来ません。ただ、お子さんが心の元気を取り戻し、明るい気持ちで生きてくれるようになることを、願うばかりです。
  
そして、私について次にお話したいと思います。

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私が私でなくても良かったと子供が思う時

私が私として、生まれたことを喜んでもらえている。
自分が自分として、受け入れられている。
 
間違いなく、両親がそう思っていると確信している人は、どのくらいいるのでしょうか。
多分、多くの人は深く考えずに、自然とそのように受け入れているのかなと思います。
それは、親の愛はきちんと受け取れているという証拠かもしれません。
 
子供時代の傷が、今も癒えていない人に共通するのは、親から生まれてくる子が私じゃなくて、ほかの子供でも良かったんだろうと感じている点です。
自分じゃない方が良かったと、思っている人もいれば、そこまで積極的な疑問ではなくても、別に私じゃなくても大丈夫だったんだろうな、という感覚です。
  
何を言っているんだろう、被害妄想では? と思う人もいらっしゃるでしょう。
きっと、この感覚は、「分かる人には分かる」感覚だと思うのです。
勘違いとか、誤解とか、被害妄想ではなく、受け取る側の事実として、インプットされてしまった事実です。
  
理屈ではなく、本能でしょうか。子供の生きるための感覚でしょうか。
なぜわかるかと言われても難しいのですが。
親がはっきり、そういう言葉を口にしている場合もあります。
  
「勉強の出来る子だったら良かったのに」
「もっと素直な子だったら、可愛かったのに」
「誰誰くんみたいな子が良かったな」
  
そんな何気ない言葉の一つ一つに、案外子供って傷ついてしまうものかなと思います。
親としてみたら、ちょっとした本音かもしれません。子供を愛しているのは事実なので、深い意味はないかもしれませんが、その言葉だけではなく、他にも色々な要因があれば、子供は大げさに受け止めてしまうでしょう。
  
「勉強出来ない僕はいらなかったのかな」
「こんな暗い私みたいな子は、生まれない方が良かったのかな」
「人気者のあの子みたいだったら、お母さんは可愛がってくれたのかな」
  
そんな疑問から、親への不信感は少しずつはじまって行くのだと思うのです。
   
こんなこと言い出したら、何も話せない、と思う人もいるでしょうか。
もし、このことだけなら、流せるし、大人になれば忘れてしまうかもしれません。
でも、軽くこういうことを言う親は、他にも行動に出てしまうと思うのです。
  
例えば、私がされたことで、母に不信感を抱いた大きな理由があります。
それは、手を貸さなくてはならない機会を、報復の手段にする、ということなのです。
  
極端な例をあげます。(分かりやすいようにですので、私の実例ではありません)
  
スイミングスクールに通っている子供が、あまりちゃんと練習しない。
ある日、遊びにいったプールで、子供が溺れかけました。必死で「助けて」と言っている我が子を見て、大した事ないと判断した親が、「いつも練習をサボっているから、こうなるのよ。分かった!?」と言って戒めるのです。
溺れかけている子供に、そんなことを言って、自分が悪かったと思うでしょうか。
必死なので、親の冷静さは、逆に残酷に感じます。その部分だけ一生残ります。
その後、助けてもらって、「ごめんなさい。ちゃんとやります」と子供が言ったとしても、それは言うしかなかった、言わされた言葉なのです。
 
実はこれは逆効果です。
とりあえずすぐに手を貸した後で、「こうならないためにどうしたらいいと思う?」と聞く方がいいと思うのです。
本人が「ちゃんと練習する」と言うでしょう。
でもね、きっとまたサボると思うのです。それがその子の個性だから。
なので、子育てって、繰り返しなのです。何度も何度も同じことを繰り返しつたえて、すぐに結果を求めない。
だから、とっても忍耐がいるし、私は未熟は親なので、忍耐が切れて、怒ってしまって、子供に申し訳ないことをしてしまっているのですが…。
  
話は戻ります。
子供が困っていることが、子供が招いたことであったとしても、そこは親に愛があるなら、無条件で助けてあげて欲しい。
 
年齢によって、その困っていることは変化すると思うのです。
いつも消しゴムを無くす子供がいたとして、無くしたら絶対に買わないという躾も一つでしょう。
でも、実際に無ければ、やっぱり勉強に差し支えます。
「あなたのせいだから困ればいい。そうして懲りるしかない」
という考え方は、正論だけど、実は子供に遺恨を残します。
  
子供って自分勝手な部分もあるので、助けてくれなかった親の印象ばかり残って、自分のしたことはあまり残らないものなのです。親に愛がない訳ではないのに、「困った時に意地悪する親」だという印象ばかり残る。
  
私の例をあげたいのですが、実は細かなことはほとんど覚えていないのです。ただ、覚えているのは、私が困った時、笑ったり、ざまあみろということを言われたりする母の印象しか残っていないのです。
これって、そこだけ取り上げると怖いですよね。
母は残酷な人だったのか? と聞かれると、そんなこともないのです。
  
母も未熟な一人の人間なので考え方は全て完璧ではない。でも、自分が正しいと思い込んでいるので、反省することが出来ないのです。
だから、子供が失敗したり困った時に、懲らしめるのがいい教育だと思い込んだばかりに、ずっとずっとそれを小さい頃から繰り返し続けて、私に本能的な不信感をもたれてしまったのだと思うのです。
インプットですよね。
  
子供側に責任はないのか、親ばかりが悪いのか? と思われるかもしれません。
子供にも悪いこと、直した方がいいことは確かにあったと思います。
でも、懲らしめる方法は絶対にお勧め出来ません。人間不信を抱かせます。
  
他にきっと方法があると思うのです。傷つけない方法で工夫すれば、きっといい方法はあると思うのです。
それでも治らなかった部分があったとしても、人として生きて行ける欠点なら、大目に見てもいいのかなと思います。自分自身が欠点もある人間なのですから。
  
他に思い当たるのは、後回しにされる感覚でしょうか。
いつも子供が一番、子供優先である必要はありません。
でも、気にかけているという感覚があるのとないのとでは、伝わるものが違うと思うのです。
それをうまく伝えられているか。その表に出る部分だけでも違えば、子供も安心すると思うのです。
  
こんなことの積み重ねで、「私は別に私として生まれなくても良かったのかな」という気持ちが根付いてしまう気がします。
   
確かに、別の子が生まれたとして、それはそれで愛するでしょう。
でも、やっぱり目の前にいる子が一番(兄妹が何人いたとしても、その子その子が、全て一番)と思えれば本当はいいですよね。
 
ただね、もしかしたら、親も本音では、この子じゃなくても良かった、この子じゃない方が良かったと思うこともあるかもしれません。
  
どうか、悟られずに育てて欲しいなと心から思います。逆に自覚していれば、多少は修正できるかもしれません。
どういう所がこの子と自分の合わない部分なのかを、客観的に考えていくことが出来ますから。
  
出来のいい子、頭のいい子、気性のいい子。客観的に見て、自分の子より、他の子の方が明らかに育てやすい子もいるでしょう。
でも、人と比べても幸せにはなれない…。
 
目の前にいる子が、結局自分の遺伝子を引いた子で、それは事実なのですから、受け入れて欲しいと思うのです。その上で、どうしたら、その子がその子なりに一番良く育つか、そこに集中して欲しいと思うのです。
人と比べず、その子だけを見れれば、欠点を含めて好きになれるかもしれません。
 
同じピアノを習わせても、すごく上達の早い子もいれば、遅い子もいます。
ピアノなんて向かなければやめてもいいのです。でも、なかなか上達しない子の親は、他の子と比べて叱ってしまう。そうすると、親も子も幸せ感から遠くなると思うのです。
親がその子しかみなければ、1ヶ月前よりは、少しはうまくなっているかもしれません。
上達したことを感じられると嬉しくなるでしょう。子供の進歩が嬉しいでしょう。
だから、絶対に比べてはいけないと思うのです。(ある程度の標準は知る必要はある部分も否めませんが)
  
続きます

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無条件の愛って難しい

何日にも渡って、親子のことを書いてきました。

ここまで読んでくださって有難うございます。

もし、不愉快な思い、悲しい思いをされた方がいらっしゃいましたら、ごめんなさい。不適切だと思われる部分があれば、お知らせ頂ければと思います。

最近の私にとって、親子の関係は切っても切れぬテーマです。

子育てって本当に難しい!!

私の愛が、そのままの形で届いて欲しいけれど、受け取る側も人間であり、まだ子供なので、そのまま届いているかどうか分かりません。

いつだって手探りです。もう、出来上がった大人同士でさえ、人間関係は難しいですよね。家族だからといって、物事が簡単にすむという訳でもないでしょう。家庭は一番小さな社会なのですから。

全く白紙の状態から子供を育てること。しかも、社会的に迷惑がかかることを起こした場合、親に責任があるとしたら、子育ては大変な重圧です。

しみじみ考えると恐怖を覚えます。

そんなことを考えていては子供は生めないでしょうけれど。

 

事件を起こさないまでも、私の職場にいる心を病んだ大人たち。

私への何らかのメッセージと思ってしまうのです。私自身が学ぶためにめぐり合わせたのかもしれないと感じるのです。

なので、自分の心に問いかけるかのように、こうしてブログに書いています。(もう少しおつきあいくださったら嬉しいです)

 

唐突ですが、私が親にされて嫌だったことの一つは、人と比較されること。

長所ではなく、短所を見つけて注意ばかりされること。

他人の長所を探して私と比較して非難し、私の長所やいい部分はもっと努力しろとはっぱをかけられるだけで、決して認めてもらえない。

今現在もそうです。

母の気性だと思えば諦めるしかないけれど、言われると懲りずに、毎回傷つくんですよね…。私は人と比べられて奮起するタイプではないみたい。

逆に意気消沈です。(笑)

 

思えば、私の周囲の人たちに共通していると思うのは、無条件の愛を受けていないという部分です。

または、そう受け取っていないということでしょうか。

親が無条件の愛だと思っていたとしたら、それは親側の勘違いかもしれません。

私だって、親として、完全な無条件な愛ではないと、自問自答することがあります。

なぜなら、本当のそのままの子供(性格や能力も含めて)に対し、要求を何一つしていないかとなると、かなり難しいと思うのです。

良く育って欲しいという要求が、その子にとって高望みではないか。無理させているのではないか。そう考えると親の無条件の愛は人間にとって、すごく難しいレベルのことなのかな? と思うのです。 

親が愛しているからそうしているのだ、という言葉は嘘とは言いません。でも、親側の欺瞞やエゴがあるかもしれない。無条件の愛ではないかもしれない。という部分は親が内省してもいいのでは? とは感じるのです。

自覚すれば、少しは違うかもしれません。行動を変えることは出来なくても、自覚があれば、少しは違ってくるかもしれないと思ったりします。

 

もう一つ感じたのは、親が自分自身のことを他人と比較するタイプは、子供に対して競争させる親になるような気がします。(家の母もそうでした)

いつも人と比較して幸せ感を感じたり、優越感を感じたり、劣等感を抱いたり、嫉妬したりするタイプ(いわゆる隣の芝生は青いと思うタイプ、他人の不幸は蜜の味と思うタイプ)は、自分の子供も他人の子供を比較する傾向にあるように思うのです。

幸福は自分の中にあって、人と比較するものではない、と思えれば簡単ですが、人はそんなに単純ではなくて、多少は比較もしてしまうでしょう。

でも、自分自身だけならまだしも、なぜか子供となると、ますます競争心がアップしてしまう親も多い気がするのです。

子供を競争道具というか、自分のアクセサリー、自分の成績表にしてしまう部分があって、それは子供には厳しいし辛いです。いつもいい子でいるのはね…。

無条件の愛って、子供の成績や性格、容姿、才能など、恵まれていても大袈裟に反応せず、もし足りないと思う部分があっても、そこを気にせず指摘せず、その子なりのいい部分を引き出して認めてあげることなのでしょうね。

そうされて育った子供は、自分が自分でいいのだと、そのままを認めてあげることが出来るのではないかと思うのです。

私も煩悩の塊です。時々、そんな自分にがっかりすることも多い未熟な母です。

でもね。人間である以上、至らない部分はあるので、100%の親なんていませんよね。

子供にも親のことを、許してもらわなくてはいけないでしょう。(自分に甘い私…)

親も子を許し、子にも親を許してもらう。

認め合い、許しあえたら、決定的な大問題にはならないと思うのです。そう思いたいな。

最終的に大人になったときに、子供がきちんと生活力を身に着け、精神的にも自立し、人に愛され、自分も愛することが出来たら大成功ですよね。

もう少しだけ続きます

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愛を感じないパターン

私は親の立場と子の立場、両方を経験しています。
でも、未だに、子供だった時の気持ちは忘れることはないと思います。
そのくらい、子供時代の思いは強烈です。それが私を生かしているのかもしれません。
   
そして、親になった今はミックスです。親としての分別を持った私と、子供時代の心を持った私。そのミックスで育てているような気がします。
  
子育てに自信なんて全くありません。今も色々なことに反省したり、思い返してしまう毎日です。
でも、子供を愛していることはまちがいありません。
   
心底子供に興味がない親か、ひどい虐待をする親以外は、ほとんどは、子供を愛していると思います。
自分の遺伝子を受け継いで、自分の血を引いた子供を愛さない訳はないと思うのです。
  
なのに、親の愛が、子に愛として受け取られないのはどういう時か、私なりに考えてみました。
あくまで私の私論なので、反論がある場合もあるかと思いますが、流してくださったら嬉しいです。
 
まず、親が子供の人生で、もう一度生き直そうとしている場合。
 
目の前にいる子供には、無限の可能性が秘めているように見えます。未来の時間はたっぷりあるし、何もかもこれからはじまるのです。
逆に社会人である自分にある可能性は、たかがしれています。(本当はそんなことなかったとしても!)

自分が叶えられなかった夢、失敗した経験、こうしておけば良かったなど、それを子供の人生をもう一度生きることで取り戻そうとすることがあります。
親としては、いい人生を歩んで欲しいがためのことなのに、子供には子供の個性があるので、段々と受け入れられなくなってきて、そこで歪みが生じてくるのです。
そこで気付けばいいのですが、親が愛だと思ってしていることなので、なかなか目が覚めないかもしれません。
  
親の期待が大き過ぎる場合
  
親は子のために、自分の経験を踏まえて子供を自分のような苦労はさせたくない、もしくは屈辱は味わわせたくないと思います。

例えば自分が高卒で、社会で苦労しているから子供は大卒にしてあげたい、という思いがあったとして、子供もそれにいつか同調した場合は、こじれは消えると思います。
 
でも、見栄や形式で押し付ける場合は容易ではありません。
親が例えばですが医師夫婦の場合、子供は医師に…と思うのが自然なことのようです。
  
でも、その重圧に耐えかねて、現在、家庭内殺人など、沢山の事件が起きています。
その子に医師になる運命があれば、何も働きかけなくても努力したり、その道を見つけるのかもしれません。
私は甘いのかもしれませんが、そう感じます。
  
でも、親がなんとしてもこの学校をこの成績でクリアして、外科医になってもらわないと、と、そこまで決めてしまった場合、そうならない子は、憎しみの対象です。
自分の思い通りにならない子は、その期待が大きければ大きい程、憎しみは増し、究極は暴力となって噴出することになってしまいます。
実際、私の知人は、かなりの暴力を受けたそうです。それが子供にとって愛と受け取れるでしょうか?
親は愛と思っているでしょう。愛しているから期待するのですから。
でも、子供にたいして、それを愛と思えというのは酷な話だと思いませんか?
 
親が子供に無関心な場合

嫌いではないけれど、無関心なのです。
もちろん、子供だから可愛いし、愛しています。でも、自分の方が大事なのです。
だから、子供は後回し。順番としては、3番とか4番とかでしょうか。
 
そういった順位は、子供なら無意識に感じます。
それが淋しくて、注目して欲しくて、荒れる場合があると聞いたことがあります。関心を持って欲しい、注目して欲しいという気持ちの裏返しで問題行動を起こすのだとか。

職場のYさんは、まさにそのパターンで、親の愛を感じたことがなくて、淋しくて不良になったとか。
今も完全にその傷は癒えてないままです。腕には無数のリストカットの後が残っています。
 
この場合のYさんの親も、Yさんをとても愛しているのです。
でも、Yさんもそれを今ではわかっているのです。

理性と感情が相反するから、苦しいのだと思います。

それがその親にとっての精一杯の愛なので、どうすることもできなかったのです。
 
続く

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復刻版アイス

復刻版アイス
コンビニ(セブンイ●●ン)でレトロな復刻版フェアをしていました!
ついつい商法に乗って買ってしまう私です。

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愛なのに愛ではない

私の職場には、大人の姿をした子供たちが沢山います。

見ていて辛くなるくらい、苦しい心の闇を抱えている人がいます。
  
Yさんは、自らトラブルを起こすタイプ。そして起きたトラブルには必ず巻き込まれるタイプ。
キャパが狭いのにトラブルに巻き込まれるので、泣いたり怒ったり。それ以上のストレスがたまると、物を投げたり、叫んだりするのです。
ある心理学を学んだ女性がYさんを見て、「お母さん、お母さんと呼んでも「後でね」と振り向いてもらえなかった状態のまま、今も、誰かに自分だけを見て欲しいと必死になってアピールしているように見える」という言葉に、そういうことなのか…と少し理解できた気がしています。

  
Iさんは、とても頭のいい人で、子供の頃から期待されて勉強、勉強で優等生で来ました。
でも、無条件に愛された訳ではなく、「頭が良くて優等生な子」だから愛される、逆にそうでなければ愛されないと言う危機感があって、ずっとその線路をひた走り、大人になって結婚が破綻してから、親子関係の悪さが表面化し、大人になってから思春期のような反抗が何十倍にもなって起こっているようです。

Iさんご自身のお子さんとの関係もやはり荒れていて、3代に渡り、今になって苦しんでいます。

 
  
親がとてもエリートだと、親は子にその道を進んで欲しいと思うようです。(全員ではありません)
とても優秀な家庭で育ったKさんは、そのエリートコース以外の道を歩く以外は人間ではないと言われ罵倒され、暴力を振るわれ、親を信じられず、憎み、苦しんで苦しんで、精神的にも病み、でも、良かったのかどうか分かりませんが、結果、生きるには親のいう道しかないと思い、エリートの道を最終的に歩むことになります。
実現したから良かったですが、子供時代に愛されなかったという思いは、大人になった今も消えることがないとのことです。

今も親を信頼はしていないだけでなく、誰のことも信頼できないのに、どうでもいい人の言葉には引っかかってしまう弱さもあります。

 
 
上に書いたことは一部の人ですが、すべて本人から聞いたことです。親から見たら意見はまた違ってくるでしょう。でも、子(今は大人ですが)から見たら、それが事実なのです。
自分を愛し、受け入れることが出来れば人は幸せ感を感じることができると思うのです。でも、小さい頃に無条件で愛された基盤がなければ、なかなかそれが出来ないのだと思います。

 
  
そして、私は人が見たら絶対に分からない自信がありますが、とても苦痛な子供時代〜思春期時代を送っていました。
私の体験を話したとして、それは大変だったねと思ってくれる人もいると思います。逆に、それは甘えだと思われるかもしれませんし、大した事ないと思われるかもしれません。
  
ただ、私が思うのは、人は自分が感じた事が全てなんだろうなということ。
大人になっても客観性を持てない人が多い中、やはり、人の苦しみ、喜び、悲しみは全て、主観性によるものだと思えるのです。
  
他人から見たら大した事がないと思ったとしても、本人が感じて、悲しいと思う以上、その人の気持ちになって理解することしか出来ないのだと思うのです。

私の職場に、これだけ苦しんでいる人が複数いるということに、何か意味があるのではないかと考える日々なのです。
   
私自身は有り難いことに、親から受けた精神的ダメージはなくなった訳ではありませんが、かなり癒えています。
それは今までに出会った人たちが、そのままの私を好きで受け入れてくれたからです。
だから私は自分を信じられて、自分を好きでいられるのでしょう。

それから、本が好きだったことも私を助けてくれました。

    
でも、癒しにたどり着かない人たちの苦しみを見るにつけ、話を聞く事しか出来ないけれど、親が愛だと思って育てていたりしている行動が、その子供が大人になっても一生涯、引きずる苦しみを生むとしたら、何て恐ろしく大変なことなんだろうと思うのです。
  
親にとっては「愛」なのです。
でも、子にとっては「愛」ではない。
   
どうしてなのかなと考えてみました。
  
続きます

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親の愛が子に伝わらない という話

いわゆる「アダルトチルドレン」という言葉がありますよね。
親に愛されない、もしくは愛が伝わらず、心に渇望したものを抱えながら大人になった場合、癒されない痛みや悲しみがブラックホールのように心に留っている。
年齢は大人だけど、心は子供のように不安定で成熟しきれない。
(正式な精神論とは多少違っているかもしれませんが、私の解釈なので、その場合はお許しください)
  
私が知る範囲ですが、大人になるまでの間に、親との関係に対して、苦しみや葛藤がある人は多いと思うのです。
小さな喧嘩程度以上の問題もなく、葛藤もなかった人も稀にいると思いますが、逆にそれは一般的ではなく、特別で幸せなことだと思うのです。
  
現実問題、多かれ少なかれ親子では必ず葛藤がおきます。
もしくは親や家族、親戚の揉め事が、子供の心に深い傷を追わせるかもしれません。
  
親子であっても別個の人格、個性がありますよね。
そして、親もまだ未熟なのです。
子供も学校で大変でストレスがある上に、心がピュアで傷つきやすく、一つの物事を主観的に大きく捉えてしまうのかなと思うのです。
    
そして、親子は一代限りではないんですよね。

親であっても、その親には親がいて、その上にも親がいて、代々、伝わってきたものが流れているということだと思うのです。
   
例えば、虐待の連鎖でもいわれるように、親に虐待された子は虐待してしまうというという、悲しい連鎖。
また、私も自覚しているのですが、親に言われて嫌だった言い方を、ふとした時に口にしてしまうことがあります。
   
嫌だと思っているのに、ふと出てしまうのは、いつもされていたことが染み付いているからなのでしょうか。
   
基本的に、私は、自分がされて嫌だったこと、悲しかったことを子供に味わわせないように、気をつけています。
私の親も、きっと自分が嫌だったことを私に味わわせないようにしたいと思って、育てたことでしょう。
だけど、気付かずに、自分がされてなくても、してしまうこともあります。
自分がいいと思っても、相手がいいと受け取らないかもしれない。
  
一般的にどの親子でもきっと葛藤はあると思います。
ただ、明らかに、親側が悪いと思うことも多いのです。
子供は何も知らずに生まれてくるのですから、気質や突発的な遺伝子があるとはいえ、親や環境によって心の基盤が育つと思います。
  
私自身、自信はないのですが、親の愛はまちがいなく愛だけど、子供にそのまま伝わらなかった場合、とても悲しいなと思うのです。
     
この話は長くなるので、続きます。

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向かい合うのではなく

みなさん、こんにちは!
最近、色々と耳に入ってくる「いい言葉」が沢山あります。

以前から、「この言葉を聞くために、今日、この人と会ったんだ」と思えるような瞬間が良くあります。
最近、波動がいいのか、もしくは私が求めているのか、こうした素敵な言葉が、私の心に直接届いて、嬉しい気持ちになるのです。
皆さんが今求めている言葉ではないかもしれませんが、良かったら聞いてくださいね!

今、職場で相変わらずちょっとしたゴタゴタが続いています。
小さな会社なので、特にそうなのでしょうけれど、上は上でワンマンで下にあまり説明せずに物事を進めるし、下は下で、人のことなどどうでもよく、自分さえ良ければいいという人が多い。
後は感情的でその場の自分にわき上がった思いに、自分自身が振り回されて大騒ぎするタイプ。

でも、一部、常識と思いやりを持った、ごく普通の人たちがいるのも確かです。
その中の一人の人が私に言ってくれた言葉。

「会社って、多分、お互いに向かい合って話していても解決しないことが多いよね。同じ方向を見てそこに進む方がきっとうまくいくんだろうけれど、その方向は会社側が提示してくれないとね」

って。
理想論かもしれないけれど、本当になるほど、そうだな! と思えたのです。

そういえば、格言で、結婚について、
「結婚とは、お互いが向かい合うのではなく、同じ方向を向いていくものだ」
というのがありましたよね。その通りなのでしょうね!

他にも思い出したのが、
「結婚する前は両目を開き、結婚したら片目をつぶれ」っていうのもありました。(笑)

前に聞いた話ですが、人間の顔って、意味があって出来ているらしい。
まず、目、耳、が2つずつあるのは、それだけ良く見て、良く聞くため。鼻も1つだけど穴が2つあるので、よく嗅ぎ分けた方がいいのかな?
そして、たった一つしかないのが口です。
それは、食べることに欲を出しすぎないこともあるでしょうし、何より、口は災いのもとっていいますよね。
2つの耳で聞いて、1つの口で話す。
その割合が大事なのかもしれません!


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